●貧困方正 (2000.10.30掲載)
【社長のひとり言《Classic》】
「金がないから、アウェーに行きたくても行けないです・・・」という言葉を、若い者からよく聞く。
金がない=貧乏。
貧乏って、みんな味わったことあるか。
オレ様は、味わって、味わって、おかわりまでしてしまったことがある。
もともと、子供時代も貧乏だった、オレ。
昭和40年代、周りの家庭もみな貧乏だったから、そんなに苦痛じゃなかった。
近所の連中で集まってバーベキュー、といっても赤ウィンナーが主役で始まり、豚コマともやしで終了だった。
夏休みだって、近所の空き地と学校のプールのみ。旅行なんて行かない。行かないから、ラジオ体操は毎年皆勤賞だぜ。先生に誉められても、ちっともうれしかねぇ。
まっ、朝も早くから夜遅くまで、貧乏人は貧乏人同士、集団となって、よ〜く遊んだもんだ。楽しかったなぁ・・・。
が、しかし、この平成の豊かな時代に、オレは、もう1度、貧乏を味わうのだ。しかも、今度のは楽しくもなく、苦痛だった。
1989年に結婚。
1990年に取引先の倒産のあおりを受け、自分の会社も倒産。借金まみれ。
あっけなく家庭崩壊。直後、妻が妊娠。生活、すこぶる荒れる。
こんな状態では、とても子供なんて生んで育ててる場合ではないのだが、その頃のオレは、常に死にたいと考えており、せめてオレの分身だけでも、この世に残そう・・・なんて思ってた。
なんとも無責任な話だよなァ。今、考えると恥ずかしいよ。
「落ちつくまで・・・」と妻に言い聞かせて、しばらく実家に帰ってもらった。
それから2ヶ月ぐらいたった頃だったかな、それは四谷駅のホームにいたときのことだった。
オレは電車に乗るわけでもなく、ただ、行きかう電車を見つめている。
そして、次に来る電車に飛び込めば楽になる、楽になるって、ボソボソとつぶやいてるのよ。
生活に困窮し、まさにノイローゼ状態だった。
次の電車が来た。飛び出そうとしたその時、どこからか小さな女の子の声で「パパ〜・・・」って聞こえたんだよ。
でも、周りを見回したが、小さな女の子なんていない。
オレは直感した。これは、これから生まれてくる我が子の声だ。
オレは、そこから生き返った。考え直して、とにかく、生まれてくる子供の為にも、生きることを決心したのよ。
そして、何でも良いから働くこと、1日も早く妻と子供の三人で生活することを心に強く誓ったんだ。
(その後、生まれてきた子供は女の子だった。)
そこで、知り合いのツテで、半分住み込みの昼食専門の仕出し弁当屋に勤めた。
食うことには困らないが、毎食、毎食、米・米・米。毎日の食事は白米だけよ。
そこの弁当屋は、オレともう一人、その店の社長の二人っきりの小さな弁当屋だった。
従業員が二人だけなのに、社長ってのもおかしいけど、その社長もまた、騙されて弁当屋の経営を、無理やり押し付けられた貧乏人だった。
その社長の前の弁当屋経営者が、スゲー悪党で、借金を残して知らないうちにトンズラよぉ・・・。
しかし、その社長はほんとイイ人でさぁ。オレ、弱いんだ・・・、そういうの。
本当はもっと良い仕事に移りたかったのだけど、辞めるに辞められずズルズルよぉ。
そこの弁当屋の経営方法がすごかった。
まずは、1ヶ月の売り上げで、ありったけの米を買う。
でも、おかずを仕入れる金がないもんだから、夜中、二人で包丁もって畑に行って、野菜を盗んだなんてのは、ごくたまに・・・・・・イヤ、週に4回くらいはあったかナ。
真夜中の畑のなか、車のヘッドライトが近づいてくると、「伏せろ!」って通り過ぎるまで、畑に伏せるんだよ。
それって、世の中がバブル全盛の時代ときだよ。信じられる。
白菜を軽トラック一台分かっぱらった次の日の弁当のメニューは、中華あんかけ(肉なし、白菜のみ)、白菜の味噌汁、白菜のおしんこ、あと白菜とニンジンを湯どうししたヤツ。
これじゃ、売り上げもあがんないって。
水道も止められたことがあって(まっ、二日間だけだけど・・・)。
そんな時は、公園から水をくんでくる。
柏ビーチだよ、そんときゃ・・・。
他にもエピソードも沢山あるが、長くなるのでこのくらいにしときます。
そんな経営だったから、当然、給料も貰ったり、貰わなかったり。貰っても、7万円だ。
ここに居たらオレはダメになる。
やめよう。今日言おう。今日、今日こそは・・・っと思っていたそんな時、社長が、「君には苦労かけるなぁ。スマン」と言って、柏レイソルのチケットを出してきたのよ。
どうやら、スポーツ店に営業に行った際、タダでもらった招待券だからやるっ言われて、手に入れたそうだ。
気晴らしに、次の日曜日に行ったよ、社長と二人で。
ショックを受けたよ、オレ。
今まで、こんな世界があるなんて知らなかった。
そして思った、「次も観たい・・・」と。
「次の柏レイソルの試合も、是が非でも観たい」と強く心に思ったんだ。
しかし、試合を観にいけるようになるには、しっかりとした仕事について、生活を安定させなきゃならない。
そこから、オレの生活が変わった。
今までの人生に踏ん切りがついた。決心できたんだ。
その後、オレは弁当屋を辞め、新しい職につき、家族を呼び戻した。
そんなオレの人生のきっかけとなった試合。
平成5年、カレッカ来日2試合目の試合だった・・・・・・。
「金がないから、アウェーに行きたくても行けないです・・・」という言葉を、若い者からよく聞く。
金がない=貧乏。
貧乏って、みんな味わったことあるか。
オレ様は、味わって、味わって、おかわりまでしてしまったことがある。
もともと、子供時代も貧乏だった、オレ。
昭和40年代、周りの家庭もみな貧乏だったから、そんなに苦痛じゃなかった。
近所の連中で集まってバーベキュー、といっても赤ウィンナーが主役で始まり、豚コマともやしで終了だった。
夏休みだって、近所の空き地と学校のプールのみ。旅行なんて行かない。行かないから、ラジオ体操は毎年皆勤賞だぜ。先生に誉められても、ちっともうれしかねぇ。
まっ、朝も早くから夜遅くまで、貧乏人は貧乏人同士、集団となって、よ〜く遊んだもんだ。楽しかったなぁ・・・。
が、しかし、この平成の豊かな時代に、オレは、もう1度、貧乏を味わうのだ。しかも、今度のは楽しくもなく、苦痛だった。
1989年に結婚。
1990年に取引先の倒産のあおりを受け、自分の会社も倒産。借金まみれ。
あっけなく家庭崩壊。直後、妻が妊娠。生活、すこぶる荒れる。
こんな状態では、とても子供なんて生んで育ててる場合ではないのだが、その頃のオレは、常に死にたいと考えており、せめてオレの分身だけでも、この世に残そう・・・なんて思ってた。
なんとも無責任な話だよなァ。今、考えると恥ずかしいよ。
「落ちつくまで・・・」と妻に言い聞かせて、しばらく実家に帰ってもらった。
それから2ヶ月ぐらいたった頃だったかな、それは四谷駅のホームにいたときのことだった。
オレは電車に乗るわけでもなく、ただ、行きかう電車を見つめている。
そして、次に来る電車に飛び込めば楽になる、楽になるって、ボソボソとつぶやいてるのよ。
生活に困窮し、まさにノイローゼ状態だった。
次の電車が来た。飛び出そうとしたその時、どこからか小さな女の子の声で「パパ〜・・・」って聞こえたんだよ。
でも、周りを見回したが、小さな女の子なんていない。
オレは直感した。これは、これから生まれてくる我が子の声だ。
オレは、そこから生き返った。考え直して、とにかく、生まれてくる子供の為にも、生きることを決心したのよ。
そして、何でも良いから働くこと、1日も早く妻と子供の三人で生活することを心に強く誓ったんだ。
(その後、生まれてきた子供は女の子だった。)
そこで、知り合いのツテで、半分住み込みの昼食専門の仕出し弁当屋に勤めた。
食うことには困らないが、毎食、毎食、米・米・米。毎日の食事は白米だけよ。
そこの弁当屋は、オレともう一人、その店の社長の二人っきりの小さな弁当屋だった。
従業員が二人だけなのに、社長ってのもおかしいけど、その社長もまた、騙されて弁当屋の経営を、無理やり押し付けられた貧乏人だった。
その社長の前の弁当屋経営者が、スゲー悪党で、借金を残して知らないうちにトンズラよぉ・・・。
しかし、その社長はほんとイイ人でさぁ。オレ、弱いんだ・・・、そういうの。
本当はもっと良い仕事に移りたかったのだけど、辞めるに辞められずズルズルよぉ。
そこの弁当屋の経営方法がすごかった。
まずは、1ヶ月の売り上げで、ありったけの米を買う。
でも、おかずを仕入れる金がないもんだから、夜中、二人で包丁もって畑に行って、野菜を盗んだなんてのは、ごくたまに・・・・・・イヤ、週に4回くらいはあったかナ。
真夜中の畑のなか、車のヘッドライトが近づいてくると、「伏せろ!」って通り過ぎるまで、畑に伏せるんだよ。
それって、世の中がバブル全盛の時代ときだよ。信じられる。
白菜を軽トラック一台分かっぱらった次の日の弁当のメニューは、中華あんかけ(肉なし、白菜のみ)、白菜の味噌汁、白菜のおしんこ、あと白菜とニンジンを湯どうししたヤツ。
これじゃ、売り上げもあがんないって。
水道も止められたことがあって(まっ、二日間だけだけど・・・)。
そんな時は、公園から水をくんでくる。
柏ビーチだよ、そんときゃ・・・。
他にもエピソードも沢山あるが、長くなるのでこのくらいにしときます。
そんな経営だったから、当然、給料も貰ったり、貰わなかったり。貰っても、7万円だ。
ここに居たらオレはダメになる。
やめよう。今日言おう。今日、今日こそは・・・っと思っていたそんな時、社長が、「君には苦労かけるなぁ。スマン」と言って、柏レイソルのチケットを出してきたのよ。
どうやら、スポーツ店に営業に行った際、タダでもらった招待券だからやるっ言われて、手に入れたそうだ。
気晴らしに、次の日曜日に行ったよ、社長と二人で。
ショックを受けたよ、オレ。
今まで、こんな世界があるなんて知らなかった。
そして思った、「次も観たい・・・」と。
「次の柏レイソルの試合も、是が非でも観たい」と強く心に思ったんだ。
しかし、試合を観にいけるようになるには、しっかりとした仕事について、生活を安定させなきゃならない。
そこから、オレの生活が変わった。
今までの人生に踏ん切りがついた。決心できたんだ。
その後、オレは弁当屋を辞め、新しい職につき、家族を呼び戻した。
そんなオレの人生のきっかけとなった試合。
平成5年、カレッカ来日2試合目の試合だった・・・・・・。