●おもちゃのチャ・チャ・チャ (2001.6.27掲載)
【社長のひとり言《Classic》】
昔々のことでした。
まだ、私、みゃ長が四つ、五つの頃、それはそれは可愛かった頃でした。
『ママと遊ぼうピンポンパン』という、とても人気のあるTV番組がありました。
今で言うとNHKの『お母さんといっしょ』みたいな、視聴者参加型番組です。
出演した子供達は、坂本しん平ちゃん、ゆき子お姉さん、体操のお兄さん、そしてカッパのカータンと一緒に、番組の最後にピンポンパン体操をおどります。
体操をおどった子供達には、ご褒美としておもちゃが貰えます。
「さあ、おもちゃの国に行こうー!」と坂本しん平ちゃんが掛け声をかけると、子供達はいっせにスタジオの後方に作られた大きな木に向かって走り出します。
そこには、なんと流行のおもちゃの数々が山積みされていて、子供達はそれぞれ自分の好みのおもちゃを選び、家に持ち帰ることが出来たのです。
当時、その番組を見ていた子供達は、みんなピンポンパンに出たくて出たくてたまりませんでした。
ある日、私も「ピンポンパンに出たい」と母におねだりしたことがあります。
すると、
「あれは、みんな東京の子。ピンポンパンには東京の子供しか出られないの!」
と言われてしまった。
私は、とてもショックを受け、東京に住んでいないことを恨みました。
大人となった今では、そんな東京の子供だけなんて人種差別的なことがあるわけないと分かるのですが、当時は本当に信じて納得していました。
自分がFC東京戦になぜ燃えるのか、わかったような気がした今日このごろです。
ピンポンパンに出たいとねだって、その結果ショックを受けたのは、なにも私だけではありません。
あの吾郎ちゃんも幼い頃、お母さんに出演したいとおねだりしたそうです。
当然、おもちゃ欲しさにです。
でも、吾郎ちゃんのお母さんは、
「冗談言わないの、あのおもちゃが貰えるなんて全部ウソ。番組が終わったら、みんなしん平ちゃんにお金払うのよ、近所のおもちゃ屋さんより高いのよ、払うのはお母さんなの、あんたじゃないのよ、家のどこにそんなお金があると思っているの」
と言われ、ショックを受けたそうです。
結局、俺ら貧乏人なんかは、テレビの前に立ち、しん平ちゃんの「さぁ、おもちゃの国へ行こうー」の号令がかかると、自分であらかじめ用意しておいた、てめぇのきったねぇおもちゃ(ベーゴマや腕のない怪獣の人形とか)を、お菓子のあき箱に入れ、ワーイと喜びながら、ピンポンパンに出演している雰囲気を楽しんでおりました。
あーぁ、か、悲しい・・・。
あれから数十年、月日が流れたことでしょうか・・・。
30歳を過ぎた私と吾郎ちゃんの目の前には、夢にまで見た、あの憧れのピンポンパンの子供達の夢先案内人、坂本しん平ちゃんが立っているではありませんか・・・。
・・・と言っても、ただのそっくりさんであって、当然、ホンモノのしん平ちゃん当人ではありません。
そのそっくりさんとは、新たに太陽工務店に入ったメンバーなのです。
当然、本人の同意もなく、有無も言わさず、すかさず『しん平ちゃん』というあだ名が付けられました。
吾郎ちゃんなどは
「お前は、いつも丸眼鏡に毛糸の帽子かぶって、オーバーオール着てこい!」
と無茶なこと言ってました。
そして試合中に一瞬でもスタジアムが静まりかえる場面があると、新人のしん平ちゃんに「おもちゃの国へ行こうー」と大きな声で言わせました。
そのたびに、私と吾郎ちゃんは腰から砕けて大笑いです。
しかし、試合中に悪ふざけが過ぎました。
すっかり油断してしまいました。
そういう悪ふざけの過ぎた時の試合には、必ず負けます。
その通りになりました。
ナビスコ・カップ、カシマスタジアムで行われた鹿島アントラーズ戦。
ナビスコだけに「お菓子の国に行っちゃたー」となりました。
オゥンゴールから始まり、七級審判のような判定、薩川の退場などもありました。
不運な面もありましたが、やられ過ぎです。
もういいよ、「おもちゃの国へ逝こうー」
昔々のことでした。
まだ、私、みゃ長が四つ、五つの頃、それはそれは可愛かった頃でした。
『ママと遊ぼうピンポンパン』という、とても人気のあるTV番組がありました。
今で言うとNHKの『お母さんといっしょ』みたいな、視聴者参加型番組です。
出演した子供達は、坂本しん平ちゃん、ゆき子お姉さん、体操のお兄さん、そしてカッパのカータンと一緒に、番組の最後にピンポンパン体操をおどります。
体操をおどった子供達には、ご褒美としておもちゃが貰えます。
「さあ、おもちゃの国に行こうー!」と坂本しん平ちゃんが掛け声をかけると、子供達はいっせにスタジオの後方に作られた大きな木に向かって走り出します。
そこには、なんと流行のおもちゃの数々が山積みされていて、子供達はそれぞれ自分の好みのおもちゃを選び、家に持ち帰ることが出来たのです。
当時、その番組を見ていた子供達は、みんなピンポンパンに出たくて出たくてたまりませんでした。
ある日、私も「ピンポンパンに出たい」と母におねだりしたことがあります。
すると、
「あれは、みんな東京の子。ピンポンパンには東京の子供しか出られないの!」
と言われてしまった。
私は、とてもショックを受け、東京に住んでいないことを恨みました。
大人となった今では、そんな東京の子供だけなんて人種差別的なことがあるわけないと分かるのですが、当時は本当に信じて納得していました。
自分がFC東京戦になぜ燃えるのか、わかったような気がした今日このごろです。
ピンポンパンに出たいとねだって、その結果ショックを受けたのは、なにも私だけではありません。
あの吾郎ちゃんも幼い頃、お母さんに出演したいとおねだりしたそうです。
当然、おもちゃ欲しさにです。
でも、吾郎ちゃんのお母さんは、
「冗談言わないの、あのおもちゃが貰えるなんて全部ウソ。番組が終わったら、みんなしん平ちゃんにお金払うのよ、近所のおもちゃ屋さんより高いのよ、払うのはお母さんなの、あんたじゃないのよ、家のどこにそんなお金があると思っているの」
と言われ、ショックを受けたそうです。
結局、俺ら貧乏人なんかは、テレビの前に立ち、しん平ちゃんの「さぁ、おもちゃの国へ行こうー」の号令がかかると、自分であらかじめ用意しておいた、てめぇのきったねぇおもちゃ(ベーゴマや腕のない怪獣の人形とか)を、お菓子のあき箱に入れ、ワーイと喜びながら、ピンポンパンに出演している雰囲気を楽しんでおりました。
あーぁ、か、悲しい・・・。
あれから数十年、月日が流れたことでしょうか・・・。
30歳を過ぎた私と吾郎ちゃんの目の前には、夢にまで見た、あの憧れのピンポンパンの子供達の夢先案内人、坂本しん平ちゃんが立っているではありませんか・・・。
・・・と言っても、ただのそっくりさんであって、当然、ホンモノのしん平ちゃん当人ではありません。
そのそっくりさんとは、新たに太陽工務店に入ったメンバーなのです。
当然、本人の同意もなく、有無も言わさず、すかさず『しん平ちゃん』というあだ名が付けられました。
吾郎ちゃんなどは
「お前は、いつも丸眼鏡に毛糸の帽子かぶって、オーバーオール着てこい!」
と無茶なこと言ってました。
そして試合中に一瞬でもスタジアムが静まりかえる場面があると、新人のしん平ちゃんに「おもちゃの国へ行こうー」と大きな声で言わせました。
そのたびに、私と吾郎ちゃんは腰から砕けて大笑いです。
しかし、試合中に悪ふざけが過ぎました。
すっかり油断してしまいました。
そういう悪ふざけの過ぎた時の試合には、必ず負けます。
その通りになりました。
ナビスコ・カップ、カシマスタジアムで行われた鹿島アントラーズ戦。
ナビスコだけに「お菓子の国に行っちゃたー」となりました。
オゥンゴールから始まり、七級審判のような判定、薩川の退場などもありました。
不運な面もありましたが、やられ過ぎです。
もういいよ、「おもちゃの国へ逝こうー」